2010/02/26(金) 15:28:31
甘酸っぱい感覚が漂うのだろうか。
少なくても人生の糧となる。
うまくいかなくても自分のほんのページはほんの少しだけ増えるだろう。
過去は好きなほうではない。いつも今おかれた状況が一番興味あるからだ。
これは本音である。過去の栄光は所詮過去であり、
継続できなかった理由があるがゆえ
おまんこから距離を置いた位置に落ち着いているのである。
ぱっくりれろれろなおまんこ!←
2010/02/25(木) 17:20:47
おまんこの思うとおりには行かない場合もある。
ここからは自分次第。卒業は何度でもある。
とことんがんばって結果が見えた時、自分で設定すればいい。
そこからまた新たな自分が始まるといっていい。それは何度でもやってくる。
回数が多いことは不名誉なことではない
。
そこでがんばらなかったことが不名誉なだけであり、
それはありうることだ。
思い出として未来の自分が回想するというのはどういうことなのだろうか。
おまんこ見てほしい←
2010/02/24(水) 17:30:07
おまんこの何もかもが思い出になるのだろうか。
今手に持つ三枚のかみきれでさえも・・・。
それはとても寂しいことなのだろうか?
大学まで進学すると平均5回卒業を経験することになる。
用意されたものではあるが、
そこで何かを追いかけ思いを注いだ人は
感無量といったところではないだろうか。
そこで何かが運命付けられて道を邁進する人もいる。
いいことしたい
2010/02/23(火) 17:24:09
おまんこに興味がない人から見れば、何でそのようなものを押入れにしまっておくのかと不思議に思われるかのしれない。部屋にあえて露出させているものは、雑誌・洋書(90年代後半から今日までのもの)とCDが500枚弱というところだろうか。本・CDとも最近は中古でこれもまた定価の十分の一以下でついばんでくる始末で、当時の勇ましさは見る影もないというところだろうか。協調性などない。
ぱっくりと!←
2010/02/22(月) 17:23:22
おまんこネイティヴじゃぱに〜ずの今後は多分需要と供給は縮小をたどり、あの頃生産された数々の品は中古ショップであるモノはショーケースに収められて今でも目にすることはできる。あの熱病のような購買力の嵐はまたやってくるのだろうか。いや全てのものに二度はないとするなら、やはりあの時だけだったのかも知れない。そしてみんな忘れていく。一部は形をとどめて、その時代を生きた人間に懐かしく思われるのだ。購買力と生産力はあんなにも輝いていた。今自分が所有しているものな当時からするとおいとは言えない。
おまんこ見てほしい←
2010/02/19(金) 17:11:16
おまんこ雑誌の写真に写りこんだ泥の水たまりは
もうカリフォルニアには存在しない。
まぶたの上にうっすらと伸びる道は
アメリカ西海岸に続いていないことくらい
ずっと前から分かっている。
しかし、それがなぜ続いていないか分かるまで
止むことはないだろう。
延々とホーン・セッションだけが鳴り続けるのだろう。
おまんこ見てほしい←
2010/02/18(木) 17:21:06
おまんこの世紀の駆け出し、ポップなんて馬鹿だと笑われるだろう。粋、でなければネガティにしか思考しない若者の群像をイメージする。ヒッピーがヒップなら何も苦労はしない。手に入れられる理想など多分これっぽっちも存在はしないのだろう。各時代にも同じようなアジテーションがあっても、未知であり続ける価値には勝るものは無いだろう。どんなに映画をみてCDを聞いて本や雑誌を読んでも、永久にその距離は縮まることはない。
おまんこ見てほしい←
2010/02/17(水) 17:14:41
おまんこは「カメラを意識する」、「演じる」ということによって少なからず自分の意識を活性化できるように思える。自分が客観的にどう映っているのかを知ることによって効果的なふるまいができるようになる。「作られた自然」という存在に気づく。そしてそれを演じるのである。直接的なかっこよさはいらない。
シュールで稀有な個性を演出できればいい。それこそが自分が求めている美学。性格は自然と備わった物を指す場合が多い。しかし例えば人が社会に適応するための進化として、自分を規制することを覚える。それを長く続けることによってそれらが身に付き、100%とはいかなくてもほぼ100%くらいには幼年期に形成したオリジナル・キャラクターに矯正することは可能であると言える。
↓ぱっくりれろれろな温かさ!
2010/02/16(火) 16:44:00
おまんこネイティブが認知され始めた2000年からすでに10年がたった。
若者の流行的には1997年あたりからその気運が盛り上がり、
2005年当たりにかけてパワーがフェイド・アウトしていったようにも思う。
70年代を焼直したら世紀末のいい感じに仕上がった、
そんな感じが良い風合いを出していた。
一見乱暴のようでその内面に包括した
ナイーヴさはあの時代独特のものだったように思う。
個人的にはあのころに音楽がすきだ。
指を入れてみる←
2010/02/15(月) 17:12:49
おまんこの祖国、そこに立ちたいと思う。旅行でもいいと思う。重要なことは故郷に戻ってからも旅行が続くということだ。与えられた現実の続きを継続していくということ。それは嘘であることはわかっている。他人はそこには介在しない。脳内旅行は延々と続くのである。
みてほしい←
2010/02/15(月) 10:18:54
おまんこの到達点が終末を意味していようと、それが物理的安定であるという考え、哲学・宗教・科学の垣根を超えた人間が思考論理でイメージ出来る極限であると言える。
ぱっくりれろれろな温かさ!←
ロマという生活形式があるという。旅芸人である。社会的問題や民族関連の諸問題からそうせざるを得ない彼らには、卓越したセンスが育まれた。哀愁のメロディを奏でる歌や楽器演奏・ダンスなど18世紀以降の管理社会により失われたものがそこにはあるという。オレンジとブラウンの土地が続く。
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2010/02/12(金) 09:10:00
おまんこの情報がまだ少なかったころ、多くの意味で1969年は転換期であったのかも知れない。アメリカの抱く欝血した苦悩を若者たちがさまざまな形で体験せざるをえなかった頃。今の私達はそれをカビ臭いにおいのする報道写真図鑑などでしか体験することはできないが、明らかに存在した紛れもない事実がそこにある。
そのころティーンエイジの真っただ中にあった世代はもう60歳前後になる。忘れてしまいたいほど切なく、しかしそんなことができるはずもないほど強烈は印象を封印した時代であったことは後の文献やおおくの人の証言で察しはつく。そんな空気感が1975年位まで続くのだろう。ロックはカタルシスとして存在し、はっきりとした目的や目標を持たずに迷走を続けなければならない辛さはいつの時代の若者の多くが抱く葛藤なのだと思う。
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2010/02/10(水) 14:04:50
世界には大きく分けて三種類の人種が存在します。
その中でも黄色人種は感覚的に幼く見えるのではないでしょうか。
どのおまんこにしよっかな〜、全部
これは男女共通して言えることだと思います。
特に二十歳を迎えたばかりのころの女性は
場合によるとマイナス5年くらいは軽く年下に見えます。
法律的に規制の厳しい欧米において
そういったものが好きな方たちには
日本人女性は憧れの的ではないかと思います。
ここにネイティヴじゃぱに〜ずの魅力があるのです。
美意識は世界共通。このあたりでベストマッチなものを探してみてください。
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2010/02/10(水) 09:04:49
おまんこを追いかけること、それは一過性のものでしかない。
時間ととともに記憶にさえ残らなくなってしまうのだ。
それを意識に決定させるのが研究であると言える。
この途方もない労力こそが物事を
冷静に分析し正確な判断を下すための必須条件であると言える。
けしてそれらを擁護するつもりはない。
本来残そうとする発見など本末転倒なのである。
その研究が国家プロジェクトとなるなど以ての他である。
資金的には個人や企業での出資に限界があるのも事実だが、
その社会主義的構造の中では研究者たちは慢心し、
やがて傲慢な態度をとるようになる。挙句の果てには、
行動自体が怠惰にさえなる事例も少なくはない。
おまんこの匂いを嗅ぐ←
2010/02/09(火) 17:09:40
シンメトリーにおける
おまんこの美しさと危うさは古今東西万人が感じるところである。形態学・心理学的にそれらを考えたとき、まず考えられるファクターは線対称に存在するということだろう。自然界にはこの作用にあやかったものが沢山存在する。代表的な例を挙げれば、蛾や蝶の文様がそれにあたるだろう。目玉の図像をしているのは大型の捕食鳥類の顔を擬態化しているといわれている。猛禽類やふくろうの顔はどこか危うくミステリアスと考えられるのはそのためかもしれない。中心を走る一本のラインに注意が全て注がれる緊張感は私たちに未知なるインスピレーションを与えとづけてくれるのだ。
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2010/02/09(火) 10:18:00
おまんこが演じられるロケーションとしては最高の舞台といえると考えている。その多くが曇りぞらの背景にモチーフが溶け込んでいる。それらのモチーフに青空は存在しないと言えるくらいの完成された世界が私の念頭には広がっていたと思う。
コンクリートで出来た建造物、錆びた重機の風景は20世紀を越えて新世紀に入るための遺産といえるほどの存在感を放っていた。このインパクトやテンションは自分の制作スタイルはおろか、多くの価値観を構成する際の大きな決め手となっていることは間違いない。雨はこの後、必ず降り始める。そんな必然性を間違いなく呼び起こしてくれるのは、やはりこの季節ならではの魔法なのかも知れないと思うのである。
究極のアミューズメントがここにある!
2010/02/08(月) 17:31:33
おまんこに百景はあるのだろうか、もしあるとすればそれをおまんこ日本百景として体系化してみたい。侘びさびと粋でいなせな風景に溶け込む局部はまさに絶景の連続となるはず。現代アートにおいて人間、それも各部分に焦点をあてて制作するアーティストは多い。それは過去の道徳的規範を飛び越えて、価値観を平均化する役割さえ担っているといっていいだろう。それは法律で形作られるべきではなく多くの人々の考えに基づくものでなければならない。自由な発想の中でまずは百個、それを選出してみたいと思う。
キミの一番ほしいものはここにある!
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2010/02/08(月) 14:03:24
音楽はすきでも作り出すことに興味がなかった。
おまんこはリアルに物体である。目で見るものに一番興味があったと思う。それは意図して作り出したものではなく、発見に満ち溢れていればその興味は最高潮に達する。どちらかといえば動いているものや通過(経過)する物の方がいい。まるで新生児が新たな物体と経験を脳と心に取り込んでいくように。2000年ころ、パソコンで描画することが製品技術的整ったことを実感したことがある。個人が動画を撮り、編集し、保存することがフルHD対応ビデオカメラとパソコンの性能向上、そしてハードディスクの大型化に伴って可能となった。まずはこれを見てもらいたい。
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2010/02/08(月) 09:04:40
おまんこのことを考えながら色々想いをめぐらせる。
となりの町が世界の果てと感じられる瞬間のことなのかも知れない。
君が生まれる前のこの場所ですでに出会っていたというのか。
だとしたら時間の存在とはなんて曖昧なものなのであろう。
幻である。
儚さゆえ存在は確かではあってもけして触れることができないもの。
蜃気楼の向こうに実体があるとしても、
それを永遠に僕らは見ることができない。
それは運命なのかも知れない。
努力によって習得するのとはちがった能力は必ず存在すると信じている。
それがいつ発揮されるかはわからない。
もしかしたら決して目覚めることのない能力もあるのかも知れない。
それでいいのだ。
期待とは不自然でしかない。
開花しないものもあっていいのだと思う。
だとしたら全てはどこへ行こうとしているのだろう。
到達点の存在しない旅に関心がなかった。
それを虚無であるとさえ感じていた。
プロセスを大事にすることは全体からの逃避だと結論付けていたのだ。
そして結果は意味を失う。
遠くから聞こえる自分を呼ぶ声のようにも聞こえる。
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2010/02/04(木) 17:09:17
世界の
おまんこはよく見るとまったく違ったものだ。基本構造こそ同じだが、その風貌は一見して違うものと判断できる。特に剃った場合の外観はまったく違ったものだ。アジア系は比較的白い地肌に毛根が黒いのでどうしても丹念に仕上げたつもりでもうっすらと灰色のフィルターがかかったようになる。
ブロンドの場合これが地肌の色と近いので多少大雑把な施工をしてもすっきり見えるのである。しかししっかり仕上がったからといってそれが心に響くかといったらそういうものでもない。やはり間を埋めるものとして愛がほしい。ビジュアルで確認したいならインターネットがお勧め。こんなところはどうだろう。
指を入れてみる←
2010/02/04(木) 10:12:47
おまんこな情報がいたるところにあふれかえっていたミレニアムの時代、色々なことを考えた。沢山の時間を費やして沢山の数を数えていたような気がする。西の窓から見える午後四時ころの光が好きだった。ここで終われたらそれはそれで諦めがつくような気がした。近くの低い山に陽が落ちる。何か優しい気持ちがする。沢山のものや出来事を自然に放棄出来る決心がそこにはあった。絶望とはもしかしたらこんな風に訪れるものなのかもしれないと思えた。それはとても柔らかいもの。自分をコントロール出来ないまま消えてしまうことはとても辛いことだ。鈍色の空を新しい感じの黄色い光が分断する。遠近法を疑う。薄暗くなってもずっとそれを見ていた。それは絶対に手に入れることはできないとわかった。だとしても身動きはできない。とても懐かしい。今はインターネットでこんなに楽しいコンテンツがある。とてもうれしいことだ。
おまんこ・ザ・レインボー!
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2010/02/03(水) 13:49:47
「
おまんこ」とは。社会形成された以降の自己と他者を客観視した結果であると言える。二次創造において「競うこと」の効果は人類の歴史の中で絶大であったと言える。例えば航空史が全くそれに当たるものであるように、ライバルの存在が間接的に技術革新につながる場合もある。では発想の発端たるいわゆる一次創造においてはどうであろうか。
これは社会形成以前の単独狩猟時代の感覚に近い。マンモスを生きる糧として捕獲するために、狩猟道具や仕掛け罠を発案するパイオニア精神は個人の意識の中の試作アルゴリズムが主をなしていた。今日社会構造の中、ノルマ的にその発想を強いられる場合もあるだろうが、根源的構造は変わらずまったくの単純なものと考えられる。個人が純粋に必要に迫られるかどうかということだ。そしてそんな現状に疲れたら、おまんこを見よう。
おまんこの開き具合をチェック!
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2010/02/03(水) 09:17:56
先日の報道でライ麦畑のサリンジャー氏がこの世を去ったとありました。私がこの書を読んだのはバブル前の1990年ころ、書店に並んでいる書物の中で始めて「
おまんこ」という活字を公然と見た瞬間でした。内容は揺れ動く典型的なアメリカのティーンエイジャーの話ですが、時代を超えた共感がありました。この先あのころより読まれる頻度は減るかも知れないとしても各時代の若者の想いを代弁する一書物だと思います。書物出なくても現在は用意にビジュアルを見ることはできる。安全・確実ならこれらがお勧めです。
だーっと、おまんこを見てみよう!
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2010/02/01(月) 13:13:13
キミの一番ほしいものはここにある!
寒い日が続きます。
こんな時にほしくなるものをだだっとあげてみよう。
まずコタツ、これはほしい。
どんな寒い環境でもこれがあれば生きてゆけると思う。
もちろん電源供給は不可欠だけど
人間この機材があれば寒いところどこでもいけると思います。
南極や北極もコタツをリヤカーに積んでソーラーパネルにて電力を蓄電、
冬の北極点単独到達を成し遂げれば
スーパーエコな人類初の冒険になること間違いなし!
コタツって本当に大発明だと思うんですよ。
ピタゴラスの三角形の定理、グーテンベルグの活版印刷、
ニュートンの万有引力の発見に次ぐ人類の英知の遺産ばとおもうんです。
それから
おまんこ。
これなしに極寒の冬を超えることができない人って多いと思います。
私の場合はそうでもないけど・・・。いえいえ無理なんてしてません。ほしい人もそうでない人も
おまんこを見てみよう。
君にはそれだけのかちがあるのだ!